鎮魂の芸道「能」のお話をうかがいました

先日、浄國寺さまにて、山田征さんの「自動書記による五感の本質のお話」と、お孫さんの金剛流能楽師 山田伊純さんの「仕舞の披露と能楽についてのお話」を拝聴してまいりました。

目の前で能の仕舞を拝見できるという、何とも贅沢な経験でした。
とても迫力があって、まさに神仏集合でお寺の本堂で神事を拝見している気持ちになりましたよ✨

お話では能とは、ということを成立ちから、能面や型について細かく丁寧に解説下さり、是非ともフルセットの能楽を拝見したくなりました。
そして能楽とは鎮魂の芸道であったということも初めて知り、驚きでした。

能の約250のお話が、“魂”が主役が多いということからのようでした。戦で修羅道に落ちた武将の亡霊や、植物の精霊などの霊のお話が多く、霊の話を僧侶が聴いて霊が安心するというストーリーなどから、武将が能が好きで戦に向かう時に能楽師を連れて行っていたのも、現代まで芸が語り継がれたのもそのおかげだそうです。世阿弥の作品には、悲惨な最期を送った人でも、その人が生きていた中で最も輝いていた一瞬を舞台に引き上げるという優しさがあるということも知りました。

『源氏物語』『伊勢物語』『平家物語』が題材のものもあり、謡(うたい)がない舞は「からだで表現される絵巻物」とも称されるようです。

そうそう、打ち上げでお話をさらに伺う機会があり、謡(うたい)の節に音程のようなものがあるのか聞いてみたんです。
五線譜のようなものはないのだけれど、人それぞれ身体の芯から響く音程が中として、それより少し高い音、低い音と3パターンで分けているそうです。
なので、同じ謡(うたい)でも、人によって音程のようなものは違うそうです。が、そこで「音痴」ということにはならないそうなんです。身体の芯から声が響いてないとだめだけど、それは人によって違うのでそもそも比べる物ではないという。
「音痴」という概念は、日本には無かったということです。五線譜の音楽が日本に来てから、人と比べたり、五線譜と比べたりした結果音程があっていないと「音痴」ということになったんですね。ん~、考えらされますね。本来の日本は色々ともっと自由で、もっと人を慈しむような国だったのかなと想像しました。

とても素晴らしく貴重な経験をさせていただき、今年は伝統芸能の世界を観に行きたいと思いました🌸

山田伊純
公式サイト http://yamadaisumi.com/